傾聴

説明を求められたから分かるように説明しようとしているのに、聞く側が反対の立場にこだわってはなから理解する気もなく、途中で聞く気すらなくなって最終的にはいはいって生返事されたり首傾げられて終了するのが大嫌いで、伝えたいことや分かって欲しいことがいっぱいあったのに、自分の頭がぱんぱんになっていたのに、それを日常的にされ続けたから、高校生のわたしは気が狂いかけたわけで。

わたしってなんであんなに神経質でしんどかったんやろうって、おおらか(てきとう?)になった今では思うことが多かったけど、

自分の話をちゃんと聞いてもらえずに流されるのを日常的にされてたから人に話を持ちかけたらしんどいんやって学習して、閉じこもって、聞いてもらいたい気持ちを抑圧することがしんどくて、聞いてもらいたい気持ちがわいてくること自体に腹が立って、自分すら自分の意見をねじ伏せるようになった。だからだ。

そんな生活は続いたけどある時終わって、大学に来て、経験の浅い人の意見でも知識の浅い人の意見でも最後まで聞いた上で賢い人がわたしにも分かるように説明してくれたり、わたしが1回言っただけじゃ分からんかったことを、もっとちゃんと理解したい、それってどういうこと?って分かるまで聞いてくれるところで過ごした。

それが本当にありがたかったから、自分の意見が誰と揃ってなくても聞いてくれる人はちゃんと聞いてくれるって知ったから、あのときのしんどさの中身が分かった。自分の感受性や表現方法が生まれつきおかしかったから周りに馴染めた気がしなくてその結果しんどくなったわけではなく、自分の意見に価値がないみたいに扱われることがきつくて自分を抑圧しすぎた結果自意識がバグったのだった。今ほど主張がうまくできなかった自分が悪かった点もたくさんある。それを分かっていて、分かっているから、あのときこうできていたらというのはもういらないと思う。耳を傾けてもらえる生活が今年で4年目。とてもありがたく、とても楽しく、鮮やか。びっくりするくらいご飯がおいしいし、びっくりするくらい景色が綺麗だから、色々悩んでたときは本当に感覚が鈍って世界が灰色になっていたのだなと思う。

議論が好きな理学部を選んで、多様性を学ぶ生物学科を選んで、自分の意見と同じ立場じゃない人にもちゃんと話を聞いてもらえる生活を長らく送ってきたこと再確認して、ええとこ選んだなあと自分と周りを誇りに思う。