余白

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今でこそあまり考えなくなったけど、高校生の時は自分の存在意義をたくさん考えた。煮詰めるような悩み方しかできなくて、自分の姿勢を改めたり物に対する見方を変えて生活を楽にするために自分の頭を使う方が良いと気付くのはもっと後のことだった。その高校生のとき、友達とか大人とかに、自分の存在意義は何だと思うか聞いたら、大半が「それを探すために生きてる」「それを考えることが存在してる証拠」という答えだったけど、反抗期なので特に納得もせず、それは答えになってないなと内心思っていた。自分の存在意義について疑問を持つことが少なくなった今でも、未だにその答えには納得していないけど、そう言った人たちの気持ちもなんとなく分かる状態になった。今この瞬間に存在意義を明らかにすることが重要なのではなくて、今後明らかになっていく予定で今とこれからを過ごすという姿勢を、拗らせた高校生のわたしに伝えようとしていたのだと解釈しています。

存在意義について悩まない日常になってから生活がすごく楽だった。それは存在意義について悩まなくなってから生活が楽になったのと、生活が楽になったから存在意義について悩まなくなったのと、両方だと思う。存在意義なんて大層な言い方するけども、結局は嬉しい楽しいことときついつらいこと、どっちも起こる生活においてつらいことの方が大きいときに、それを耐えるための理由が欲しかっただけだったと思う。そして楽しいことの割合が多くなった今、あんなに欲しかった存在意義に対しては特に無くても構わないものだと思っている。

自分が生まれたことを奇跡とか運命とかそういう風に言う人もいるし、わたしも自分が生まれる前から紆余曲折経て結局生まれて今生きてるのはすごくありがたいなと思ったりする。でも意義みたいなものは無いと思う。自分が生まれることを奇跡とするなら死んで元素として散ることも奇跡に分類されると思う。泡みたいに生まれて消えること、そこにいろんな感情が挟まるけど、現象としては同等だ。ありがたくないことがたくさん起こってキャパオーバーになった時に、ありがたい偶然とありがたくない偶然に、自分が勝手に意味を付加してきただけだったのだと思う。

存在意義は無くて良い。無くても元気で過ごせる生活が健康的で尊い。きついことを多く察知しやすかったとき、平静を保つために意義を見出したがった自分の気持ち、未だによく覚えてるし、そうだよなあそうするよなあと思う。あの時すごく欲しかった存在意義、何年かしたら考えがまとまると思っていたけど、何年かした今、未だに分かりません。まとまってないどころかそもそも考えなくなっちゃった。拗らせた高校生のわたしよ、数年でこれくらい身軽になれるって知ってたら、ああまで思い詰めずに過ごせていただろうか。

 

理学部で勉強してると、「それを研究して何になるのか」ということを聞かれがちで、もうその野暮な質問には飽きている。何かに活かすために研究をしたい人は根本的に、自分の研究が活用されて役に立つことが研究を進める上で大きな位置を占めているのだと思う。それが悪いとは微塵も思わない。技術開発する人も役に立たない無駄知識を追求する人も同様に賢くてえらくて最高だ。役に立つかどうかはその時代その状況によって変わるから、今役に立たなさそうだからといって研究自体が無益で不要なわけでは全くない。

生きてていろんな人の役に立ちたい気持ちはあるけど、役に立てたことが今まで1回もなくても、今後も無かったとしても、自分が不要な存在であるわけではないと思ってる。人に対しても。いる意味なんてあっても無くても良い。