癇癪ゴリラ

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癇癪持ちだった。今もそうかは分からない。

感情のコントロールが小さい頃からずっとずっと下手くそだ。小さい頃とても泣き虫だった。どんなことでもすぐに悲しくなった。解像度がまだ低かったから、むかつきも、体調が悪いのも、悔しさも、羨ましさも、後悔も、煩わしさも、申し訳なさも、罪悪感も、気まずさも、面倒くささも、理不尽さも、鬱陶しさも、眠たさも、諦めも、怒りも、一緒くたになって対処できなかったのかもしれない。ひとつひとつが大きすぎたのかもしれないし、湧いた感情を受け止める自分の心の器が浅すぎたのかもしれない。とにかくひとたび感情が湧いてしまうと、世界の全てがそれでいっぱいなってしまうのだった。ほかに何も見えなかった。真っ暗な空間の中で、脳みその表面と心臓をじわーっと気持ち悪く撫でられ、握られるようなあの感覚、未だに覚えている。

気持ちが悪かった。気分が悪かった。自分の手から自分が離れていくような、自分が自分じゃなくなるような、絶対怪我すると分かってて谷底に落ちていく自分を眺めているような、鬼になってしまうような感覚があった。怒られているのは、悲しんでいるのは、紛れもなく自分であっても、鬼になって暴れてしまう自分のことを、どこかで見つめていた。

わたしはなんでこうなってしまうんだろう、なんでこうしかできないんだろう。自分の体や心をなんで自分が制御できなくなってしまうんだろう。本当は制御できるのに、さぼっているのかもしれない。いや、どうしようもない。いや、無理じゃないのにやってないだけ。みんなできているのになんで自分はできないんだろう。弱いからできないふりをしているのか。わたしはそういうずるい人間なのかもしれない。恥ずかしい。どうやっても鬼になる自分を止められなかった。やり方も分からなかった。やってすらいないのかもしれないと自分に思った。下劣だと思った。感情が湧いた時点でもう負けが決まっていた。鬼になる自分がしんどかった。自分1人でいることは、狭い部屋に鬼と2人っきりにされることと同じだった。わたしは自分に対して何もできず、自分に潰されて壊れていた。

だんだんと色々考えるようになった。自分の感情について細かく分析するようになった。詳しく自省するようになった。全ては、鬼になるのがしんどかったから。でも自分の内面に触れることは、自我が揺らぐ時期にし続けるにはなかなかタブーなことだったと思う。それでも鬼の出現率はどんどん低くなって、堪えたり、受け流したりできるようになってきていた。

鬼になると本人が傷つくことに気付いたのは最近だ。鬼になると当然周りの人を傷つけてしまうけど、同時に自分も傷ついている。道で癇癪を起こしている子を見かけると、その周りで途方に暮れている親を見かけると、本当にどうしようもなく絶望しているのは本当はこの子自身なんだろうなあ、と思う。自分の手から自分が離れていく感覚、この子も感じているんだろうなと思う。周りから腫れ物扱いされることも、大きいのに赤ちゃんみたいに泣いてるなあと白い目で見られることも、周りを見て行動してくれと思われていることも、全部全部自覚していて、どうにかしたくてたまらないのに、自分の体と心なのに、自分の力が全く及ばないところまで感情が高ぶって爆発して、自分で触れなくなる。気付いたら潰れている。自分が自分じゃなくなること、自分で自分を自分じゃなくすること、真っ暗な中で脳みそと心臓を撫でられながら握られる気持ち悪さ。君も鬼なのだろう。

人を傷つけるのは怖い。自分が傷つくことと同じくらいかそれ以上に怖い。誰かを鬼にしてしまうかもしれない。同じ思いをさせたくない。他人の心の世界は分からない。分からないことを自覚しておきたい。

だから、わたしは怒りをうまく表現できない。正当に怒れない。なるべく全てを許したい。鬼のわたしが今まで生きてこれたのは、いろんな人に許されてきたからだと思っているから、なるべくいろんなことを自分は受け入れたいし、安易に他人を否定したり拒絶したりしたくない。他人の傷つきに共感してなぜか自分もダメージを受けるシステムになっているので、嫌いなやつでも痛い目にあんまり遭ってほしくない。喧嘩になっても、落ち込んでいても、自分が間違っていたかもしれないとちゃんと考えられる人になりたい。

自分が間違ってるかもしれない、この人の中では辻褄が合っているのかもしれない、この人の正義と自分の正義はちょっと観点がずれていて、どっちが悪いという問題ではないのかもしれない、この人はこの人で自分が想像もできないくらいしんどいのかもしれない、そういうことを言わせた自分に問題があったのかもしれない.....。許す理由はいくらでもある。考えを展開させながら怒りをねじ伏せて、許すことはできる。みんなどうせ死ぬし。自分の正義も相手の正義もいつかは消えるし。何を言っても相手はきっと変わらないし、変えようとすることの責任は重いし、そしたら自分が変わろうかと。鬼にしかなれなかった自分が、人を許したり状況を諦めたりすることができるようになれたことが、誇らしくもあった。だが。

自分が間違っている可能性を、怒りが湧いている状況下で冷静に想起することは難しい。難しいけど、その可能性を早々と捨てて攻撃に回るのはあまりにも簡単で子どもで無責任だと思う。難しくてもやらなければいけないことで、相手が大事な人なら余計に気をつけないといけないことだ。怒りが湧いている状況でもそれを考えられるようになるには、普段から意識的にその可能性について繰り返し反復的に考える癖をつけなければいけなかった。それが自分の思う、自分のできる1番の誠実な振る舞いだった。それが妥当で、それが正しくて、それが礼儀で、それが、他者を1人しかいない存在と考える自分の、他者に対する敬意だった。

癇癪持ちはいっぱいいっぱいにならないように気をつけなければいけない。どうしようもなくなっちゃう前に、常にどこかに逃げ場と、そこへ向かえる逃げ道をいつも用意しておかないといけない。限界が来ないように、周りも自分も傷つけたりせずに済むように、普段から対策をとっておかないといけない。でも、例えば、めちゃくちゃに理不尽な言葉を投げつけられつつ逃げ場が燃え、逃げ道が封鎖されることもありえて、その状況下でいっぱいいっぱいになった自分が、せめて鬼になるのだけは阻止しなければと思って、自分が間違ってる可能性を考え続けると、もうそれだけで破綻してしまう。まさかここまで理不尽なことがこの人と自分との間に起きるとは思っていなかった。


疲れた。

怒りを外に向けたい。わたしの脳内には静かで涼しくて落ち着いてて綺麗な森みたいなゾーンがあるけど、いまはゴリラが怒りと悲しみに吠えながら森の木々をなぎ倒しまくって大炎上している。そのことを友達に言ったら、脳内のゴリラは自分の森荒らすためじゃなくて相手ぶん殴るためにおるんやでと言われた。

ゴリラを具現化できたらお風呂に入れてあげてふかふかの布団に寝かせてあげたい。疲れたな。