定休日

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さむい。だがまだいける。

 

アボカドはまだ大きくなっている。寒さに強いかもしれない。ヤマモミジは葉っぱを落とした。ガジュマルは寒いけど生きている。

かたつむりはかなり大きくなって最初2mmくらいしかなかったけど、今は1.3cmくらいあってつまめる。エサの野菜やきのこをかじって、そのかけらが頭の中を通っていくところが透けて見えた。きのこあげたら成長めっちゃ速くなるって陸貝研究してる友達が言ってたからしいたけの根元あげたら、3匹中2匹食べれると気付いてもりもりかじっていた。

モミジのところにくっついていたヨトウガの幼虫を育てています。夏に学校から持って帰ってきた蚕の幼虫の食べっぷりと比べればちょっと食が細いから心配になるけどちゃんとたべている。

昨日行こうとしてたところ全部定休日でした。笑った。適当に入ったカレー屋さんででっかいナンとカレーをアチアチ言いながら真剣に食べてお腹いっぱいになってねむくなって帰る平和の極みだった。

良いお財布買えてた。自分の欲しいもの最近考えてて、物欲あるけどお金出すほどではなくて思いつかない。たぶん貯金したいのに、生活を全体的にグレードアップさせたい気持ちがある。全体的にグレードアップてめっちゃお金かかるよな、確実に。

 

自分の生活、ちゃんとしたいところを1つ残らず十分ちゃんとやりきれるほどのお金を手にすることはきっとこれからの人生一度もないと思うから、どこかで線を引いて手の届く範囲で丁寧に暮らして行くほかないけど、その諦めに似たようなものがたまに嫌になる時がある。

それでまあ貧乏ってほどでもないけどそれほど余裕もなくて嫌だなーと思って今日の写真を気晴らしに見てたら、全部定休日やのに楽しそうで、グレードアップなんてもうよくないかと思えてきた。気付いたら満ち足りているかどうかを確認しそうにもならないほど足りていた。あほすぎてスルーしてたな。

毛玉

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青色が綺麗!

またしばらくぶりとなってしまいました。特筆すべき変化は何もありません。変化のなさ良い。安定して穏やかな生活は飽きと怠慢を生むと思うけど今はあまりそんな気配はなく、変わらなさが有難い。変わらない方が難しいし。あとだんだん増やすことよりも減らすことの方が難しい。どっちもピアノで習った。

すっかり寒くなって、こないだみたいに秋が受け入れられへんなどと言ってる場合ではなくなりました。年明けかと思うほど寒くて、まだ11月ですが本気で着込む。そんな着てもっと寒くなったらどうすんのと言われても、未来の極寒のために着れるものを着ずに今の極寒を苦しむのはあほらしい。けどやばいな、すでに着ぶくれて肩をこらせながら最近は生きております。

元気です。みんな元気かなと思って高校の友達などしばらく会っていない人たちのことを振り返ることが多くなった。それはもしかしたらみんなそうかもしれなくて、ぽろぽろ人から連絡が入ってきた。夏はひたすら楽しくて自分のために過ごして、冬はそういう季節なのかもしれません。自分のために過ごしてない季節なんてきっとないんだろうけども。

冬の寒いのはかなり苦手ですが、いっぱい美味しくて暖かいもの食べようと思っています。

写真は一昨日のバイト帰りの。珍しく早上がりで2時間くらいぶらぶらして古本を買いました。人にあげようと思ってるけど喜んでもらえたらいいな。

糸のような自分がまあどんどん図太くなってきて、柔軟になったつもりでいるけども頑固なところが厳選強化されたんだろうなと最近思うようになった。成長とも言い切れない、もしかしたら余計にややこしい人になっただけかもしれませんが、譲れるところは譲って、譲らないところは譲らないでそれでいいと思うというか、たぶん当分これから数年かもっと長い間、そういうようにしか生きられないと思っておいていいかもしれない。みんな頑固者。それから頑固になる分野と程度の多様性。

そういえば今日お風呂でふと思い出したことがあった、思春期の反抗期は自分の万能感から来ているらしい。確かに自分は自分のことも親や友達や他人のこともなんでも分析して分かった気でいて、自分の中の結論を真実としていたなと思い出した。思い込みってひどい。自説に根拠のない自信を持って親と喧嘩していたことを思い出してはものすごく恥ずかしくなる。たまに大きい口で色々言いたくなることが今でもあるけど、自分が万能でないことを知ることが反抗期を終結させたのだということをたまに思い出して、言う前に気付けたらいいな。

全裸で5分外にいるだけできっと絶望できるこの季節、ただひたすら寒さの前で無力、圧倒的無力。万能だったことなんて一度もなかっただろう。布団ありがとう。

この間「自分たちは仲が良いか」という議題で1時間半以上駅の改札前で話し込んだ。そんなことができて仲が良くないわけがないだろう、アホで最高だ。

透瑠

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秋になって少し経った。秋になったことが悲しかった。夏が好きすぎた。

今年の夏も沖縄に行って潜った。サンゴも岩もないだだっ広い全方位海に囲まれたところに浮かんで、魚の群れの中でゆっくり回転、天地が分からなくなるのはあっという間で足元に海面、横に海底。はるか頭上で波が輝いて、見渡す限り青が深まっていった。海に溶けて消えてなくなりそうな、消えることがなくなりそうな、不思議に落ち着いた。これが夏、生命力に満ちて自然に溶けそうなわたしの夏。

秋になったのが悲しかったのは、秋が悪いのではなく、寒さに弱いわたしと夏を諦めきれないわたしと、とにかく自分のせいだった。しばらくして、ほんのちょっとずつ秋が好きになってきている。

毎日大切に思う。毎日自体も、日々過ごす人や景色や場所に対しても単純に。

しんみりとのんびり。

打刻

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最近自分の生い立ちの話をした。そういう突っ込んだ話ができる同い年が2人いる。すごいことだと思う。文字通り有難い。

生い立ちは飛び抜けて珍しいわけではないありきたりなもので、世間一般に見て特別なものは何もない。ただ家族がいて、まだまだ幼さに気付く力のない自分がずっといた。

人に話したことで以前より頻繁に振り返るようになった。過去を切り離そうとしたり、受け入れようとしたり、失敗と捉えるか、正解と捉えるかいろんな形に振れて迷ってきた。なにが正解かは未だに分からず、ただそこにあったものとして、それから今をつくったものとして、時間をかけて納得したけど満足するにはまだ時間がかかるか、人の力がいる。

受け入れることは必要ないどころか過去が誇りで宝物で、今の自分がこれが好きなのはこう育ってきたからだと嬉しそうに話す人もいて、そういう人を見るとやっぱり羨ましい。自分の今までの時間がもったいなくてはやく歩き出したくてつらくて、だからずるをしたいのかもしれない。自分からしたらそういう人たちの方がラッキーでラッキーでずるいってどうしても思ってしまうけど。でもずるくなんかないのもよく分かってて、しかもずるいって思ってしまうの性格悪いなって自己嫌悪に陥ることもない。

こんなかんじで、全部考えたと思う。傷ついたりすることももうないし、事実が自分の中のあるべき場所にきちんとはまってる。

 

なんとかしないとなってたまに焦るけどもう必要な分は十分考えたのではないかと思ってるから、これ以上転びようがないのかもしれない。納得の先に満足があると思ったらそうじゃなかった。

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前髪きりすぎました。眉毛全部出ています。前髪切りすぎたときは「前髪短いな」って言われる前に、もう友達と顔を合わせておはようよりも前に「前髪やってもうた」と言うタイプ。

でもありやねこれも、短さに慣れてきました。おでこ広大やから眉毛出てるのがちょうどいい説が浮上している。

 

眉毛成長したな。全然眉毛無かったけど21年養生し続けてやっと眉毛らしい眉毛になってきました。中学生くらい、みんな一斉に眉毛に関心がわいて剃ったり抜いたりして整えて細くなりすぎるあの時期ありましたね。あの時も一切眉毛に関心がわかず、というか関心を向けられるほど生えそろっおらず、正真正銘激薄ノータッチ眉毛でしたが、この間眉毛初めて整えました。

妙にテンション上がったな。かっこよくなった!って姉に見せた、笑えちゃうな。

自分の眉毛いつも困ってて頼りなくて意思弱そうであんまり好きじゃなかったけど姉があなたの眉毛好きやわってずっと言ってくれててだんだん好きになった。姉は偉大。

 

わたしは「前はこんな風に考えてたけど変わっていまはこう考えてる」の話が多いと気付いた。なんとなく変わったわけじゃなくて無理やり変えてきたとこが多いからだと思う。起こしにくい変化を努力で起こしながら変わろうとすることがこれまでの人生のほとんどだったと思う。元々の出来にも現状の仕上がり方にもあんまり自信はないけど、どんどん引っ張り上げて進んできた今までのことは自分と近くにいてくれた大人や友達だけが知っている。今までの人生ほとんどそれに費やしてきたからその点だけ贔屓してはなまるをつけているだけかもしれない。でもそれでいい、わたしの人生めちゃくちゃ最高だと思う。めっちゃ頑固者やけど、変われる人はどこにでもいけるってだれか大人が言ってくれて、それから長い時間地道にそうしてきた。

 

でも最近前の堅物で頑固で人のことなんか全然、ましてや自分のことも全然好きじゃなかった自分のこともなんだかんだいいなって思えてきた。変えねばと思って現状をなくす作業をずっとしてきたし、変わらなくて良かったわけはないと思うけど、それでも前のも良かったと自分は思っておくことにした。

 

秋風気持ち良い、秋の日差しは赤とか橙っぽい。夕方でもないのに、景色の葉っぱも家の壁も雲までも何もかもがちょっとずつ暖色で柔らかくて優しい。まだ完全には紅葉してなくて、でも夏ほどの草の活気もない、ちょうど季節の境目にいると思う。

生き物巡回

めちゃくちゃ久しぶりになってしまった。夏が矢のように過ぎた。今年も早かった。春は夏に、秋は冬に、冬は春につながる感じがするけど、夏だけは唯一終わる。物悲しいのはそのせいか。

 

久しぶりすぎて書きかた変わってるかもしれません。まあいいや。

いろんなことがあったので生き物編だけ書きます。

 

夏が始まる頃に手の中でセミが羽化したけど、ちょうど夏がピークを過ぎた頃に、バイト中人通りの多いところを歩く亡くなりかけのセミを拾い上げて後ろ手に守った。もう羽ばたけず、何も掴めない一生の夏を生きたセミ、お疲れ様。

 

生き物近況ですが、かぶとむしが最後の1匹も死んでしまった。

かぶとむしは4匹とも蛹になって、そのうちの1匹は蛹室を作ることができていなかったのでビンで蛹室を作ってそこで変態してもらいました。毎日観察して、ぶよっとした蛹を透かして見て、中にシャープなツノや爪がだんだんできていくところを見て興奮したりしました。最初に羽化したのもそのオスで、バイオリンみたいに茶色くてツヤツヤピッカピカの宝石だった。次に羽化したのは虫かごから羽化したオスで、マットな質感でいぶし銀みたいな渋い黒でした。その後待ってたら銀ちゃんともう1匹のメスがおそらく逃げてしまって、最初の子が亡くなって、最後にメス1匹だけが残った。最初の子は外傷もなくどこも汚れてなく、前触れもなく突然動かなくなった。最後の子は日に日にエサ食べる量が減っていって、土も変な匂いするようになって、よくこけるようになって、動かなくなった。

夏の虫やから仕方ないとは思いつつ、やっぱりちょっと、いやちょっとではないか、寂しかった。今でも。

最初の子が亡くなったとき、ああ死ってこうなのかと思った。あるとき突然、生きている状態じゃなくなるときが来るのが死だと思った。でも最後の子が亡くなったとき、それはまさに老いで、生きていることと老いていくことが混ざり合って老いの割合が大きくなっていくその終着点として死があった。

生きていることと同じくらい死ぬことは不思議で、そういえばこのあいだおばあちゃんと「生きていくことと少しずつ死んでいくことは同じやね」って話したな。

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美しすぎた。本当に綺麗で綺麗でどうしようもなくて標本にしようかと悩んだけど庭に埋めました。一緒に過ごしてくれてありがとう。

 

 それからかたつむり。かたつむりは小さなかたつむりをもらったあとにもっと小さな卵のかたまりをもらって、卵からかえった子も一緒に育てた。そのうちの何匹かを友達や先輩に譲って今は最初のかたつむりと卵からかえった子2匹を育てています。けっこう成長速度にばらつきがあって、今は3匹ともほとんど同じくらいの大きさです。

何が合うのかわからなくて野菜変えてみたり、きのこをあげてみたり、卵の殻を入れてみたりと未だに試行錯誤しています。グングン壁を登ったかと思ったら頭を引っ込めて出てこなくなって、夜にはまたブーンと移動したり、各自好きに過ごしてくれているようです。

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この子は最初の子。おおきくなりました。

 

最後にアボカド。長らく無反応だったけど臨海実習中ににょきっと赤い芽が出てきて、それからはグングン伸びて、伸びたらポンポン葉っぱが出てきた。こないだ台風が来たけど、ベランダに出したままバイトにいってしまって、気がかりで帰って急いで様子見に行ったら強風にも耐えていてすごく頼もしかった。

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ワイヤーで種を水耕栽培していたけど土に植えました。

おばあちゃんが「あら〜こんないいところに植えてもらって〜」って言ってて笑った。平和だ。

 

生き物を観察して管理して育てているようで実際はわたしが育てられていたと思う。夏休みの前半8月末まではたくさんバイトに行ってヘトヘトで帰って来て、しんどくてへこたれていたと思うけど、夜中に土を触ったり掃除したりしながら様子を巡回するのが最高の最高の日課だった。みんなありがとう。

手中の夏

手の中でセミが羽化した。ものすごくものすごく綺麗だった。何回も震えたり左右に体をよじりながら出てきた。とてもよく頑張っていた。おめでとうの気持ちでいっぱい。

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最後は木に留まらせた。元気でね。

 

海に臨む ふまじめ

実習の内容も楽しかったけど、実際一番楽しかった思い出のメインは空き時間に海に入って泳いで魚の群れを見たり、夜中ご飯もお風呂も終わってあとは寝るだけの状態で宿舎を抜け出して砂浜で朝方まで寝たことでした。

楽しかった。

 

最終日の夕方、海で泳いだあとで夕日が沈んでいくのを見届けた。一緒に見た人は1日の終わりに立ち会ったって言ってた。なんて優しい表現だ、、

 

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たしか最終日の1日前、夜ものすごく晴れた日があって星がめちゃくちゃたくさん見えた。対岸の明かりが眩しいくらいこちらには光がなくて星を見るには最高だった。

お互いに大人数で過ごすことに辟易していて、隙間時間を見つけてはちょこちょこ2人で会えてそれがとても嬉しかった。星の日に一緒に見てたけど、わたしが目を離していたときに流れ星が見えたらしい。わたしも見たかったけどなんか満足そうな人を横から見てて自分も十分すぎるくらい大満足だった。

海に臨む まじめ

1週間白浜に行ってきました。

実習内容は2.3日目は発生観察、4.5日目は系統分類、6日目は出殻反応の実験でした。

 

発生はウニやカキから卵と精子をとって受精させて、顕微鏡で卵割を観察した。

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これは全部ウニで、さいごのがウニの骨片。骨片は細かい粒子が一様に並んでできてるから偏光板を使ったらこんなに綺麗に光るみたいです。

カキやゴカイは磯に取りに行って、トンカチとナイフを使って岩から剥がした。ものすごく暑いなかで、途中から楽しくなってきてついでにヒザラガイやらヘビガイやらカニやらたくさんとった。

発生は序盤の卵割はどんどん進んで行くけど、プルテウスになるのはかなり時間がかかって、夜中まで追いかけてスケッチした。

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系統分類は先に動物門について水族館で勉強したあとで、磯に行って好きな生き物をとってきた。わたしはトラフナマコっていうナマコをとって、たくさん調べて前で発表しました。なまこちゃんに詳しくなった。

なまこは棘皮動物棘皮動物といえはウニやヒトデなどなど、硬かったりチクチクのものが多い一方でやわやわのなまこも棘皮動物です。体に持ってる骨片の形や大きさで体の硬さが決まるらしい。なまこは色や硬さが種類によって違っていて同定しやすいけど、もう1つ違うのがその骨片の形で、今回は皮膚を一部切って骨片も観察した。

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わたしのとったトラフナマコの骨片

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ムラサキクルマナマコの骨片

その名の通り車輪のかたち!

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ムラサキグミモドキの骨片

三種のなかで一番体が硬くてグミみたいだった。骨片の量もものすごく多かった。

ちなみになまこは刺激するとキュビエ器官を吐きだして、これが皮膚についたらかなり取れにくくて大変だった。紐みたいに出すけどかなり弾力あって弦のようでした。もっともっと刺激すると脱腸して袋だけになります。解剖せずに内臓観察可能。3ヶ月くらいで元に戻れるみたい。

イソメやギンポ、ヤドカリやカニやイソギンチャクを発表してる人もいたし、星口動物門や紐形動物門っていう今まで知らなかった動物門の動物を発表してる人もいて、ずっと飽きずに聞けた。海のプラナリアを発表した先生はスケッチがめちゃくちゃうまくてびっくり、さすが。

 

最後は貝をいろんな塩類溶液に浸けてどれくらい足出すか数えました。

アラレタマキビっていう小さい貝ともう一種好きなのをたくさんとってきたのが実験対象で、またみんなで磯に行って貝拾い。アラレタマキビは飛沫帯に住む貝で、干上がったときの熱から身を守るために地面にべちゃっと着かずに点で立ってる貝。とるのにトンカチとナイフが必要なカキとは違ってつまんだらぽろっと取れちゃうのがアラレタマキビ。もう一種は最初は大量にいたシマレイシガイダマシにしようって言ってたけど意外とアマオブネがとれたからその子に決定。アラレもアマオブネも反応が速い貝で、わたしたちの班は実験が進むのが速かった。

貝の形でいうと今回はイボタマキビが一番お気に入りでした。かわいい。

三鷹の森

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行ってきました。夜行バスで行って夜行バスで帰ってくる弾丸貧乏旅行。でもものすごくわたしたちらしいまったりゆったり良い旅だった。

 

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案内看板

 

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チケットがフィルムになっていた。たしかこれはソフィーがハウルの先生のところにハウルの母親ですって嘘ついて行って「ハウルは来ません」って言うシーンじゃなかったかな。

 

美術館の中は、映画の話ごとにコーナーが分かれているのではなくて、ネームやセル画とかごと、制作段階ごとにコーナーが分かれていた。2階の最初の構想段階みたいなコーナーがいちばん好きだった。鉛筆でさらさらっと書かれたところに水彩で着彩してあるの、ラフで緻密で美しい。

 

ロボット兵は屋上にいました。

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 1日を通してもう散策散策ぶらぶらまったりでした

いろんな生き物見つけたり、ビオトープを発見したり。公園に行ったら紫陽花が綺麗に咲いていた。

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3歳くらいに過ごしてたという場所に行って、もしかしたら全部なくなってるかもなと思っていたけどお家も、裏の池も、よく遊んだ公園まで全部残っていて、本人が大きくなったから全部が小さくなったみたいだったらしい。すごいな。わたしは小さいころのことはほとんど忘れてしまった。懐かしそうでよかった。懐かしさは本当に独特のほんわかした良い気持ちだと思う。一時の嬉しさ悲しさではなく長い長い時間に洗われて時間をかけてやっとうまれる気持ち。

 

おいしい和食を食べてぐっばい東京

たのしかった

またこようね

 

行先

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人生考えなあかんな‬。
‪贅沢をしなくてもいいのか、生きていけるだけのお金があればいいのか。1人で生きていくのか、何人分まで人生を支えられるのか‬。1日の半分を勉強以外にどこで何をして過ごすのか。何をするのが自分にとって幸せかな。

 

大学受験で大学を選ぶとき、これは大学を選んでいるのではなく、これから先4年の生活を選んでいるのだと思った。就職はこれから先の人生を選ぶことになる。

お金はあるに越したことはないけど、質素にでも生きていけるだけあればそれでいいと思っている。趣味には、お金を使おうと思えばたくさん使えるし、使わないでいようと思っても趣味が崩壊することもない。わたしの趣味ってちょうどいいな、ちょうどよさも含めて好きなのかもしれない。

 

夜景の見えるディナーも高級ホテルもいらなくて 、ただ毎日お米とお米に合うおかずを1品2品食べられればそれでいい。狭くても居心地の良い家で、生き物や人間を育て育てられしながら目をキラキラさせながら生きていくのが理想の生活で、ギラギラとは全然違う。宝石や高い食事よりも、その季節でしか見ることができない生き物やたまたま作れたおいしいご飯の方に贅沢さを感じるならそれができるような生活にしたい。人生においてなにかでかい業績がほしいというよりは、日々の小さな気遣いの積み重ねで達成する細部まで丁寧で優しい生活がわたしはほしい。

 

将来住むところを決めた。向いてそうな仕事も見つかった。あとは自分の勉強と、相手方との相性だけかもしれない。

 

 

土俵

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季節は巡って梅雨にもうじき入ろうとしています。

ここ何年かで青が好きになった。花の青と海の青は格別きれいで大好き。

 

最近はずっと実験。実験してレポート書いての繰り返し。楽しいけど、実験はミスしないように気が張ってて、レポートもしっかり考えるから、頭が疲れていて家に帰ったらすぐに寝てしまう。細かい作業かなり好きですが、注意を払いまくるのが疲れるのかもな。普段どんくさいというか、いやそんなかわいいもんじゃなくて、大きい音が近くで鳴って驚いてなにもないところでつまずいた拍子に持ってるものを落として壊すとか、そういう連鎖型のやばいミスを犯しがちなので、実験の班に迷惑かけないようにこれ以上ないくらい神経を使ってる。危惧と配慮と注意力だけでエネルギーがかなり持っていかれてる。うまくやらねば。

硬くて冷たいフローリングで寝入るの何日も連続してしまってるけど、まあ寝ちゃったら仕方ないし、床でも寝れたら体はいくらかは休まってるし、朝からお風呂入ってスッキリ。朝風呂大好き。

 

この間いろんなことに対して鬱憤が噴出するときがあって、そういうときはだいたい自分に不満があるときって決まってる。何に対しても無力感が大きくってなんでか分からず悔しかったし、他人に対して勝ち目がないように思えてものすごく情けなくなった。でもこんな気持ちを味わうのは久しぶりだった。いつもわたしは自分のいる土俵に他人が登ってきたら土俵を降りてしまう。勝敗をつけることを望んでないし、そして逃げている。たぶん人一倍負けず嫌いで、それは努力に繋がらない負けず嫌いで、要するに負けん気で頑張るのではなく負けたら全部やる気がなくなっちゃうタイプの負けず嫌いで、だから逃げやすい。ちょっとの刺激としてたまには人と比べて、負けたくなさとか悔しさとかそういうこと考えるのも必要なことかもしれない。考えている最中はきつくても練習になるね。

考えても仕方ないことを考えるのが人間だと思っている。何もかもに合理的なことしか考えないならそれは、思考というよりは反応のようで、意味のあることもないことも、気になれば気がすむまで考える余地を与えられているならそれを使いたい。よくやってしまうけど思考にのまれるのはよくない。脳が主体と思ってしまうけど体を持って行動できる自分が本体であることを忘れずに、頭の中身が行き詰ったとしても体がいつもどこにでも行けることを忘れてはいけない。

 

就職活動の準備を始めた。自己分析はやり尽くしていると思っていたけど意外と文章にするにはまだ足りていなかった。他の人になくて自分にあるものは、と考えて、思い当たるのは堆積した自己分析だったけどそれがまだ足りていないからまた別の方向から考えてみないといけない。今までの何がわたしを形成して、何がわたしを育てたのか。

自慢できるようなことはなにもないような、なにもかものような。自分でなんでもしてきたと思えばなにも自慢にならないけど、人に与えられてきたと思えばなにもかもを自慢したい。いいものをわたしはたくさんもらってそれをまだちゃんと持っている。

 

ぎくしゃくを解決したいと思ってると言われて嬉しかった。その気持ちだけで、少しのぎくしゃくは知らないうちに勝手に消えている。

死ぬのが怖い、最近。本当に。まあその時はその時ってかんじで生きていたけどこんなに面白いなら、こんなに幸せならもっと生きていたいな。周りの人が死ぬのも自分が死ぬのもとても怖い。人はいずれ死ぬ。遅いか早いかだけだ。ってもののけ姫のジコ坊が言ってるけどたぶんおそらくその通り。ということは生きていることはゆっくりゆっくり死んでいってることと変わらないのだな。

生活科

お久しぶりになってしまいました。のんびり生きています。

 

いろんな人から譲っていただいたいろんないきものの世話をしています。f:id:suanskhianenem6:20170530204608j:image

これはカブトムシの子ども、この土の中にいる。学校の先生からいただいた。土は部の堆肥をもらってきた。今朝見てみたら堆肥からかいわれのミニチュアのような小さい若芽がでていた。この指は人差し指じゃなくて小指、芽が本当に小さい。カブトムシの子どもと触れ合うのは小学生ぶり、やっぱり幼虫は苦手ですがよく見ていたらかわいく見えてくる。虫かごひっくり返したら土からゴロンゴロン出てきてびっくりするけど、うすく毛の生えた表面と、その下の筋肉とで力強く蠕動運動しながら土に潜っていくところを見ながら感動したな。口元の牙もかわいい。いつも眩しそうに潜っていくから、土を足すときにごめんごめん今土足すからね!眩しいね!ごめんね!と思いながら足す。4匹飼っていて名前は4匹とも、ちゃん太郎。けんたろうやしんたろうと同じイントネーション。

 

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それからこの、生まれて3週間のかたつむり。バイト先の先輩からいただいた。かたつむりを買うのが夢だったらしく、小さいときにかたつむりの飼い方の本を熟読していて、大人になった今も野菜についてきた虫を育ててしまうようなかわいい人です。このかたつむりの3世代くらい前の親かたつむりは大根の葉っぱについてきたそうです。貝類研究しているクレイジーな友達はかたつむり育てようとして失敗してたみたいですが、この先輩は卵から何度もかえして何世代もお世話していて、かなり習熟しているみたいです。たくさん教えてもらったけど、今はまだかたつむりの体が小さいから、野菜もあんまり減らずあまり糞もしない。たまにツノを生やしたり引っ込めたり、体が殻に引っ込んだまま何時間もそのままだったり、のんびり生きているのを見て癒される。名前は、つむこ。家に来て2日、よろしくね。

 

 

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最後にこれはアボカド。いろんな種を拾っては植える彼のお母さんがアボカドの水耕栽培をしていて、まねした。なかなか長いことずっと無反応で、種が死んでるかなとおもっていたけど、5月に入って少ししたら種皮が剥けて、それからいきなり水が減ってぱかっとヒビが入った。ヒビをのぞいたら中に若い芽とチビの根っこがあった。そしてまたそこから無反応。最近ここ1週間くらいで種の頭の部分が緑がかってきたような気がしています。日が足りてないかとおもってベランダに出して見たり試行錯誤中。種を浮かす装置はワイヤー曲げて作りました。久々のワイヤーだったな。

 

というわけで、ちゃん太郎たちと、つむこと、アボカドと、それから堆肥に生えたチビかいわれと一緒に、仲良くのんびり暮らしています。成長を見守るのが楽しくて、自分がこの子たちをお世話して育てているようで本当は育ててもらっている。みんな健やかにあれ。

恩師

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高校3年間中2年半担任を持ってもらった恩師と会ってご飯を食べてきた。

 

最後に連絡を取ったのが電話で、浪人生活が終わった3月のことで、ものすごく体調を崩したときだった。あの頃はわたしはよく泣いていた。わからず屋の周りと、わからせたくない屋の自分とで、世界のうまく回らなさが果てしなかった。

いろんなことに対する悔しさも悲しさも怒りもいっぱいいっぱい、余裕がなくて泣いた、泣けばもっと余裕がなくなった。気晴らしも救いもなかった。あったのに見えなかったし見なかった。

いつ連絡をしようかと思っていた。大学に入ったら自分の時間が増えてどんどんすっきりしていった。あんなにへこんだ姿を見せたから、次会う時には元気な姿を見せようと思ってて、ちょうど1年経った頃に連絡しようと思ってたけど、そうなのですね。わたしが高校卒業以来一番へこんだのが大学1年の終わりでした。

そんなこんなで自分の中で連絡することが流れ、2年生を過ごして、1人で動いて荒波に揉まれ、また人と出会っては去って行ったけど、今が一番良い。成長した姿を見せたいと思ってたらきりがなかった、今会えて良かった。

高校の時と変わったところがたくさんある。あの時はなにかルールがあって、自分の中に揺らがせてはいけない決まりがあって、それが自分が楽しく楽に生きていくことよりも重要だったから、余裕がなくてもそれを守ることが自分の中で絶対だった。そのルールの中に「楽をするためにルールを曲げてはいけない」というルールもあった。これが一番厄介だった。

その体調を崩した時期、体調がだんだんと回復していく過程でいろんなことを考えた。今までの人生であれほど不健康だったことはないし、あのとき耐え難きを耐えてしのび難きをしのぶ際に壊れていった胃や歯はもう戻ってこないけど、ただその単純な、こんな不健康になるためにルールがあったんじゃないことに思い至るための犠牲だった。自分の人生を自分が楽しく生きていく以外に優先するべきことなんてなにもないことに、気付くために費やしたもの、命半分と頭丸ごとだった。

それから将来のことを残りの人生と捉えるようになった。人にこだわらなくなった。合う人と、合う時期だけ、一緒に楽しくいられればそれでいい。

高校生のときは自分のことを恥ずかしく思う部分が大きかったし、よく失敗するしよく間違うし忘れるし、いつも心配事が多かったのはそういうエラーを防ぐためだった。失敗しても合わないと思われても見切られたくなくて、だから自分も周りの人がむちゃくちゃなことをしてきてもただの失敗と捉えて見切ることはなかったし、合わなくても時間をかけて自分を曲げればいつか合うと思って消耗した。良くも悪くも人は変わる、の事実がどうしても嫌だったけどだんだんと受け入れてきた。わたしの芯はぶれずに川の中の竿みたいにすっとまっすぐあって、周りを人や物が流れてきては去っていくのを見てる。それでいい。

 

今が一番良い。高校の友達と会って話したときに言っていたけど、わたしたちはちょうどよさが分からない人種で、極端なことを考えたりしたりする人種で、ちょうどよくバランスのとれた真ん中に行くには両極を見なければいけない。ものすごく他人や自分に厳しくあったときと、ものすごく他人や自分に甘かったときと、ものすごく生活に執着していたときと、全く生活がいらなくなって捨てたくもなったときと、両方を経験してちょうどいいとこまで来た。

あんなに自分を恥じていたのに、どこに行っても誰に見せても恥ずかしくない。大人になったね、元気になって良かったと何度も言われた。話している途中で何度か泣きそうになった。おいしく楽しく嬉しくほっこり、とても大好きな時間だった。わたしをよく見て聞いて知って未だに見守ってくれている人がいる事実が嬉しい。ありがとう先生、ありがとう。

ご機嫌と時間

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しばらくぶり。世間はGW、行楽っていいな。みんな楽しそうでいいこと。

学生は世間が働いてるときに遊べるから世間が遊んでるときは働くことにして、このGWはびっちりバイトを入れた。暇にしてもやることがないな、やることはたくさんあるけどGWの人の多いときにやらなくていいなというそんなかんじ。

 

いっぱい働いた、その日の反省を翌日に活かしたらチケットを売った枚数が3分の4倍になりました。褒められるの嬉しかった。

飲みにもいきました。かわいい後輩と同期と、良い時間を過ごした。かわいいな人間は、ツンデレ最高。

 

GWは時間の流れ方と機嫌について考えた。

時間の流れ方が、この春から変わった。人と違う考え方のもと人と違うことをすると勘違いされたり、怒られたりされがちで、 いちいち説明をしたり誤解がないように行動するか誤解と非難を受け入れて理解者のいないまま我が道を行くしかなかったところ、気の合う人を見つけてその人と過ごす楽さに気付いた。誤解というのは例えば、他意なくただの好奇心で土を掘ってみたくなって校庭を掘っていたら、落とし穴をこさえていると勘違いされて頭ごなしに叱りつけられるとか、どこまでやったら失敗するか試して、思惑通り失敗してそうかなるほどと思っているときに実力以上のことに手を出して自惚れているから失敗したと言われるとか、先のことを考えて自分の中で効率良い準備の仕方をすると、話を聞いていなかったと思われて怒られる、余計なことをしていると言われる、邪魔をしていると言われる、など。他にも色々。他意なんてない、ひとつもない。お互いに。わたしは嫌がらせをしているわけではなくて良かれと思ってやっていて、そして周りの人も良かれと思って注意する。嫌がらせしない、そんな回りくどいことをしない、嫌なら嫌と言える。

小さい頃は何を基準にして怒られているのか分からなかったけど、自分の思考回路がおかしいわけではなく言葉足らずなまま真顔で作業するから客観的に考えて誤解されやすいってことが年齢重ねるごとにだんだん思い当たってきて、誤解のないように、勘違いされないように気をつけるようになった。それには先回りしていろいろ考える必要があって、必然的に考えすぎる人間になった。

自分が他意なく、悪気なく、良心と論理的思考のもとでやってることでなぜか怒られてしまうなら、考えても考えても人からされる勘違いの元を絶つことができるわけがなかった。勘違いは勝手にさせておいて気にせず生きていくことは、自分の足でどこまでも行けてしまう今ならできるけど、もうすこし子どものときはできなかった。周りの人はおのれの判断で良かれと思ってわたしを止めようとして注意して、それが皆目検討違いで邪魔で、歩みを応援されないどころか妨げられることに疑問が大きかった。考慮の、想像力の、経験の乏しい人の決めつけを解くための無限で無意味な努力があった。

理解者がひとりだけでもいたら違ってたと思う、もしかしたらいたのかもしれないけど。最近味方ができたようで嬉しい、そんなもんじゃない。わたしが素で自分のやり方で生きたとしてもその言動を嫌がらない人が確実にひとりいて、その人が自分の価値観だけをもとにしてわたしを悪く解釈することがないことに対する安心感とスピード感。

 

 

肥大した人類愛をかなぐり捨てたら身軽になったけど、自分の機嫌が悪くなることが少し増えた。

機嫌の悪くなる頻度はきっと変わっていなくて、たぶんそれを表に出す頻度が増えてしまった。機嫌が悪い人を見たら怯むし気を使う。機嫌の悪さをわざわざ出すことは威嚇とおなじで、でもそれを一瞬忘れて出してしまって、相手が怯えた、それを見て後悔した。相手のことを大事に思うなら、機嫌の悪さをぶつけていい人間と見なされてると、思わせてはいけない。そこだけは甘えてはいけない。